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熊本県・井芹家旧跡

平成22年11月23日、撮影。於・熊本県八代市宮原。

旧・井芹家新宅=天保3年頃の建築・明治6年増改築
131223-1・20101123・井芹家旧跡.JPG
井芹家より分家した井芹三志の新宅であった。木造二階建・1棟。瓦葺。建築面積281㎡。

天保三(1832)年の墨書が、宝蔵解体の際に見つかったことから、その頃の建物と考えられている。

明治6年に増改築。

現在は、「まちつくり酒屋」として、旧宮原町と民間が協力して設立した「宮原まちづくり株式会社」の事務所が入り、町作りの拠点としての役割を担っている。

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131223-2・20101123・宮原井芹家旧跡.JPG

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薬医門形式の通用門と亀甲模様の海鼠(なまこ)壁
131223-3・20101123・宮原井芹家旧跡.JPG
腰を亀甲模様の海鼠(なまこ)壁で築いている。右手は、薬医門形式の通用門。さらに、赤煉瓦の防火壁が設けられている。

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井芹家旧跡と井芹銀行本店 ☆熊本県八代市宮原栄久

  天保年間、光永五代目平三は、独立して、「井芹」姓を名乗った。これが、井芹家の始まりという。明治初期から同23年頃にかけて、井芹平三は、醸造業を営んでいた。

平成22年11月23日、撮影。 井芹家正門跡
131221-1・20101123・井芹家の正門跡.JPG
写真右端に質素な門柱が見えている。さらに、その右側(北側)に、旧井芹銀行本店がある。

国土地理院25000分の1地形図八代市氷川町宮原栄久http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?longitude=130.68197765853&latitude=32.556854212768

井芹銀行本店跡(八代市氷川町宮原栄久)
131221-2・20101128・井芹銀行本店跡.JPG
大正14年、施工は地元の増永組。鉄筋コンクリート造・二階建。建築面積106㎡。正面に特異な意匠の柱頭付き付柱を4本設け、パラペット中央部に幾何学的模様が施されている。


131221-3・20101128・井芹銀行本店跡解説板.JPG

「まちづり情報銀行(旧井芹銀行本店)
Machizukuri Information Bank
井芹銀行は1918(大正7)年9月、県下でも有数の大地主であった井芹康也氏を中心に、熊本市内の明十橋通りにあった九州実業銀行を買収して設置された。
1920(大正9)年10月に宮原町において本店を開設、営業を開始した。
しかし、それも手狭になり1924(大正13)年11月に新本店を現在地に起工。翌14年に完成した。
その後は、昭和17年12月、肥後銀行に合併され、1969(昭和44)年までは宮原支店として使用されていた。
現在は宮原町まちづくり情報銀行として利用されている。
構造は、鉄筋コンクリート造りの2階建て、外観は、玄関庇廻・柱頭・屋上パラペット中央部・窓廻りなどに装飾がみられる。このような装飾は、この期の建築でしばしば用いられる手法の一つであって、植物をモチーフとする装飾とは異なり角の多い幾何学的パターンである。
また内部は、かつて吹き抜けであった部分に床が設けられていたので、2000(平成12)年に井芹銀行の当初の形に復元された。
井芹銀行は、大銀行と呼ばれた中央の銀行ではなく、地方の大地主によって設立された銀行であり、なおかつ設計・施行も地元業者によって成されたという点で特異な建物といえる。」

131221-4・20101123・井芹銀行本店跡解説板.JPG

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井芹銀行本店前の道路脇にある明治節祈念釈迦院道標
131221-5・20101123・井芹銀行本店前道標.JPG
銘文「昭和十二年十一月建之 明治節祈念 金海山釈迦院道」

この道標は、宮原の旧・井芹銀行本店の前の道路向にある。

釈迦院は、正式には、西比叡金海山大恩教寺という。

延暦十八(799)年、桓武天皇の勅願によって、天台宗の名僧奘善大師が開基したと伝えられている。

釈迦岳(標高980m)の山頂に所在し、開基当初は、二寺七十五坊四十九院の堂塔伽藍があり、天台宗を基に、真言・禅・浄土など八宗兼学の道場として、八代・益城両郡を寺領とし、隆盛を極めていたという。

文安三(1446)年、比叡山の末寺に属していたが、戦国時代になると、寺領が狭められ、天正(1573~91)年間、宇土城主小西行長の焼打ちにより廃墟となり、その後、熊本城主・加藤清正の子忠広により、山門が再建され、やがて、本堂や客殿も再興された。

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肥後国益城郡・響ヶ原古戦場相良堂 ☆熊本県宇城市豊能町糸石

平成25年12月1日、撮影。 相良堂  相良義陽、終焉の地。
131220-1・20131201・響ヶ原相良堂.jpg

天正九年春、甲斐宗運は、大友氏に見切りを付け、肥前の龍造寺氏に、一族連名の起請文を送り、人質を出した。

戦国時代の肥後は、大友・龍造寺・島津の三つの勢力に挟まれて動揺していた。

九月、薩摩の島津義久は、出水を本営として、芦北に侵攻した。

八代・芦北・球磨の三郡を支配していた相良義陽は、これを迎え撃つも、島津の大軍に水俣を囲まれ、芦北郡の割譲と益城の甲斐氏攻撃を条件に和平した。

島津義久は、義陽に対して、降伏の証しに、阿蘇氏攻撃の先鋒を務めるように要求した。義久は、相良氏と阿蘇氏を戦わせることで双方の力を消耗させ、かつ、肥前の龍造寺氏を牽制しようとしたのである。

島津義久の命を受けた相良義陽は、阿蘇氏を討つために、阿蘇氏の重臣で、義陽とは誓詞を交わした盟友でもあった御船城主甲斐宗運と戦わざるを得なくなった。

すぐさま、島津氏は、相良義陽に、阿蘇領の御船城攻略を命じた。肥後の国人衆を分断する目的で、敢えてこの両者を争わせようとしたのである。

御船の田代城主田代快尊・宗傳父子は、宗傳が甲斐宗運の妹婿でもあり、相良勢と対峙した。

十二月二日、相良義陽は、八千の兵を率いて、八代を出発して、御船に向かい、守山・小野から娑婆神峠に陣を構え、堅志田城や豊内城を攻め、優勢のまま、益城郡響ヶ原に陣取った。

しかし、休息をとり、祝宴をあげていた隙を突かれて、本陣を急襲された。

甲斐宗運の軍勢は、濃霧に包まれた響ヶ原(熊本県宇城市豊野町)の本陣を背後から奇襲し、相良軍を撃破した。相良勢は、義陽以下多数の戦死者(約三百名)を出した。

相良義陽は、盟友であった甲斐宗運を裏切らざるを得なかった苦悩から、島津氏と宗運との間で板挟みとなり、わざと敗北を招くような、守備には不利な響ヶ原に本陣を敷いたともいわれる。義陽は覚悟の戦死であったという。義陽は、あくまでも退却せず、床几に座したまま戦死したという。

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相良堂 内陣  梵字の刻まれた板碑のような石塔が祀られている。
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肥後国益城郡・響ヶ原古戦場 ☆熊本県宇城市豊能町糸石

平成25年12月1日撮影。 豐野町糸石響ヶ原 相良神社 響ヶ原古戦場。
1201・20131201・豊野町糸石・相良神社 (600x448).jpg

相良堂史跡碑
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天正9年、島津氏の肥後攻略で、相良氏の領する水俣城を、島津氏の大軍が攻撃し、相良義陽は防戦できず、芦北郡を島津義久に譲り、島津氏の先鋒として、阿蘇氏勢力を攻めることになった。

義陽は、八代から娑婆神峠を越えて、響ヶ原に布陣し、堅志田城や甲佐を攻めた。

阿蘇氏の重臣で御船城主の甲斐宗運は、ひそかに義陽のいる響ヶ原を急襲し、義陽をはじめ相良勢数百名が討死にした。

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相良神社 神門 
131219-3・20131201・豊野町相良神社.jpg
神門の奥に、相良堂が祀られている。

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塔身に梵字が刻まれている。

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肥後国益城郡・堅志田城址 ☆熊本県下益城郡美里町中郡字城山

平成25年12月1日、撮影。 於・熊本県下益城郡美里町中郡字城山。

堅志田城 別名・勢多尾城・赤蜂尾城。

  中世、肥後国益城郡に築かれた山城。

  築城年未詳。

  大永三(1523)年、阿蘇惟長(菊池武経)は、弟の阿蘇惟豊に敗れて本拠地を失い、惟長の子・惟前は、堅志田城に入った。

  天文十二年、阿蘇惟前は、相良氏と結んでいたが、ついに、堅志田城は落城し、堅志田城は、阿蘇惟豊方の支配下となった。

20131201・堅志田城跡への道DSCF3555 (373x500).jpg

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堅志田城・本丸跡
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阿蘇惟長の肥後国守護職就任と豊後大友氏の肥後干渉(その4)

  永正三(1506)年三月、大友親治・少弐資元は、大内義興に属する豊前・筑前(福岡県)の諸城を攻めた。少弐資元は、太宰府を奪回する勢いを示した。

 七月十九日、大友義長は、渡唐二号船(日明貿易船)の警固を、豊後国国東の櫛来・岐部・富来氏に指示した。

【史料】 永正三年七月十九日 櫛来藤九郎ほか宛大友義長書状
猶々、来月於    
如何候間、当月中に各
首途あるへく候、
渡唐二号船帰朝候之処、
中乗と船頭慮外依喧嘩、
客衆懸乗之儀、不及是非候、
然者方々懸追手候之間、於日州
外浦留置候、弥彼船無出船
様、可致覚悟候之条、諸浦警
固舟之事相催、急度可
差下候、誠国家外聞、此
題目候、各至馳走者、可為一段之
軍忠候、重而日州江遣飛
脚候、来廿九卅日之間、必可有
到来候、其内船誘等相調、
飛脚到来候者、翌日
出船之覚悟憑入候、
不可有油断之儀候、恐々
謹言、
七月十九日 義長(花押)
   櫛来藤九郎殿
岐部弥太郎殿
富来彦三郎殿

 九月上旬、大友義長の下知を以て、朽網親満らの先陣が、肥後国隈部木場(木庭とも書く)に在陣した。

【史料】 年未詳正月十一日 阿蘇山御衆徒御坊宛朽網親満書状 阿蘇文書
(前闕)第三、(略) (※その3の史料参照)
第四、為如此之辻、同年九月上旬ニ、以義長下知、我等先陣、至肥後隈部木場令在陣、手始ニ隈部西寺令発向、其後木野、山鹿、隈本、澁庄、山本、内空閑、所々敵城依加對治候拙者被官数百人被疵、少々討死仕候、粉骨之故則政隆御没落之事、我等忠儀歴然候、

 九月廿二日、阿蘇惟長の応援として、豊後兵が、少々、小国境に陣を取付け、菊池政朝(政隆)の兵が、これと戦った。

【史料】永正三年十月十六日山北邦続内田重国連署状 相良家文書
謹令啓上候、抑、阿蘇惟長為合力、豊州衆少々、去月廿二、至小國境取付陣、今月二日、隈部近所於木庭寄陣候、然者、山鹿南郡遠所之條、隈本隈庄為可被加挌護、去三日、於内空閑城、屋形、被罷籠候、其謂直被申條、今度之刻、両國人数一味同心、對政朝(又名政隆)可抽忠節當概、無餘儀候、爰元可御心安候、此節、國静謐之儀、深重可被申合候、兼日、被憑存候筋目と申、憚敷雖申上事候、以御納得、急速勝利之御武略、於私以下茂、可為千秋万歳候、存知之趣、始中終、細碎、御私迠、用別紙候之條、不能重言候、此由、可預御披露候、恐惶謹言、
(永正三年) 十月十六日                 (内田)重國(花押)
             (山北) 邦續(花押)
園田右京殿

[訓文]
謹んで啓上せしめ候。抑(そもそ)も、阿蘇惟長合力として、豊州衆少々、去月廿二(日)、小国境に陣を取り付け、今月二日、隈部近所の木庭に、陣を寄せ候。然れば、山鹿南郡、遠所たるの条、隈本隈庄、挌護を加えらるべき為、去る三日、内空閑城に於て、屋形(菊池政朝)、罷り籠もられ候。その謂ひ、直ちに申され候。今度の刻、両国人数、一味同心、政朝に対し忠節を抽んずべく、当概、余儀なく候。爰元、御心、安んずべく候。この節、国、静謐の儀、深重に申し合わせらるべく候。兼日、憑み存ぜられさうらふ筋目と申し、憚りしく申し上ぐる事さうらふと雖も、御納得を以て、急速、勝利の御武略、私以下に於ても、千秋万歳たるべく候。存知の趣、始・中・終、細碎、御私まで、別紙を用ひ候の条、重言あたはず候。この由、御披露に預かるべく候。恐惶謹言。
(永正三年)十月十六日          (内田)重国(花押)
      (山北)邦続(花押)
園田右京殿

 十月三日、菊池政隆は、敗北し、没落したらしい。

 十月七日、大友一族の田北氏は、肥後国にて合戦を遂げ、勝利し、宗徒の者を討捕った。

【史料】永正三年ヵ十月八日大友義長書状案 津守熊野神社文書
(端裏書)
「御書案文」
就親候者發足、任賀例諸郷庄諸社家至 御神前、精誠勝利之祈念別此刻候、如例年御催促尤可為肝要候、同者急度可馳走之由可被申付候事候、恐々謹言、
 (永正三年ヵ)十月八日                         (大友)義長 御判
實相寺

【史料】永正三年ヵ十月九日大友義長書状 田北隆信氏家蔵文書
態音門披見申候、仍、肥後之時冝、只今注進到来候、去七日、遂合戦、宗徒者討捕、得勝利候由申候、快然候、方々立柄、猶重可申候、恐々謹言、
  (永正三年ヵ)十月九日            (大友)義長(花押)
  田北治部少輔(親幸)殿

 十月十三日、菊池政朝は、相良長毎に、阿蘇惟長の合力として、豊後衆が、堺目に陣を取り付けたことを報じ、北小河・守山・海東・小熊野を領知するように指示した。

【史料】永正三年ヵ十月十三日菊池政朝書状 相良家文書
(折封ウハ書)「(異筆)「永正三年十月廿二日到来」
        相良殿              政朝」
前日用一行候、定到来候哉、抑、爲阿蘇惟長合力、豊後衆、至堺目陣取付候、無是非候、此節、國家静謐之儀、一段可申談候、仍、北小河、守山、海東、小熊野事、急度御領知可然候、委細口上ニ申候、恐々謹言、
(永正三年)十月十三日 (菊池)政朝(花押)
相良(長毎)殿

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阿蘇惟長の肥後国守護職就任と豊後大友氏の肥後干渉(その3)

 永正二(1505)年九月廿日、大友氏老中から、阿蘇氏に和平の申し入れがあった(阿蘇惟豊書状写)。

 九月、阿蘇惟長を肥後国の指導者と仰ぐ旨の起請文が作成され、国人衆が署名した。阿蘇氏が守護職を掌握するための布石であったが、菊池政隆は、惟長らの背後で、大友氏が糸を引いていることを察知していた。菊池氏の重臣らは、政隆を凡庸という理由で追放したという。

 十一月、大友氏は、義長の二男を、菊地家の養子に入れることを図り、菊地氏家臣団も、一応、承諾した。

【史料】 年未詳正月十一日 阿蘇山御衆徒御坊宛朽網親満書状 阿蘇文書
(前闕)
第三、菊池政隆、阿蘇惟長、鋒楯已來、被及静謐、毎々就御幾妙對我等承候條、於此堺、北里加賀守方令内談、於阿蘇御岳、隈部老中、矢部宿老、豊府年行對談之取合仕候刻、剰菊法師殿(大友義鑑ノ弟)依嫡子御懇望、領掌之成就御神前之約諾、不私御事ニ候、是又我等取合之故ニ候、
(中略)
(年未詳)正月十一日               (朽網)親満
阿蘇山御衆徒御坊 御用

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 十二月、阿蘇惟長(のち菊池武経)が、肥後国の守護職に就任することになった。この九月から十二月に至る期間に、大友氏と阿蘇氏の間で激しい政治的折衝が行われ、最終的には阿蘇惟長の守護職就任が决定したものと推測される。しかし、この段階では、まだ菊池政隆(政朝)は完全に勢力を失ったわけではなかった。惟長は、肥後国の守護職に就いたが、いまだ、肥後国の守護所である隈府への入部を果たせなかった。 (つづく)

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阿蘇惟長の肥後国守護職就任と豊後大友氏の肥後干渉(その2)

  文亀三年、五月、細川政元は、阿波の細川成之(しげゆき)の孫で義春(よしはる、之勝ともいう)の子の六郎を自分の後継ぎにしようとした。

  政元は、細川一族は数多く繁栄しているのに、なにも公家出身の養子に家督を継承させる必要はないと考えるようになったという。

 阿波の細川氏は、細川一門のなかでも嫡流につぐ名門で、管領家が「上屋形」と敬称されていたのに対して、阿波の細川家は「下屋形」とよばれていた。

 政元は、六郎を養子にする交渉のために、摂津守護代の薬師寺与一(元一、もとかず)を阿波に派遣した。かれは細川成之を説いて、六郎を細川宗家の後嗣と決定させた。

 六郎は、元服して、澄元(すみもと)と名乗った。時に、澄元は澄之と同年齢の十五歳であった。
 
 九月、大友親治・義長父子・朽網次郎親満らは筑後国に出張した。
 
  十一月廿三日、大友義長は、筑後征伐のため、高良山に陣していた(鏡山文書)。

 この年、諸国は旱魃。飢饉に喘(あえ)いでいた。

  文亀四年二月十五日、菊池能運(26歳)、死去。正観寺に葬る。法名実相院儀天明綱。

 能運には嗣子がいなかったため、一族再従弟の菊池政朝(忠朝・政隆)が、菊池家を嗣いだ。

  しかし、家臣らの間に、この政朝の家督継承を不服とする動きがでてきた。

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  豊後の大友義長は、このような菊池氏の内紛に乗じて、肥後の阿蘇大宮司惟長、相良長毎と結んで、菊池氏のお家騒動に介入しはじめた。

  この頃、相良氏は、八代城をめぐって名和氏と対立しており、大友氏・阿蘇氏と友好を保ち自己の支配領域を拡大することに躍起となっていた。とくに、有明海の湾岸を確実に掌握することが急務となっており、そのため、肥後全体の足並みを揃えて大友氏の干渉を排除する意志はなく、肥後国守護の権威が高まることには消極的な姿勢を示していた(海老沢衷「大友氏による肥後国支配」『大分県史』中世篇Ⅱ)。

 二月卅日、永正と改元。

 三月、足利将軍義澄は、大友義長の去年の筑後に於ける勲功を賞した。 (つづく)

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阿蘇惟長の肥後国守護職就任と豊後大友氏の肥後干渉(その1)

  文亀元年(1501)五月、菊地重朝の子の能運(よしゆき)は、一族で桂庵玄樹の高弟でもあった老臣隈部(くまべ)忠直と対立し、忠直と戦って敗れ、肥前有馬氏のもとに逃れた。

  忠直は、菊池持朝の子で宇土忠豊の養子となっていた宇土為光を肥後の守護とした。

 六月、周防の足利義尹は、入京をはかり、諸国に兵を募った。

 義尹は、足利義尚の死後、延徳2(1490)年に、将軍に就任し、近江に六角高頼、河内に畠山義豊を討つため出陣したが、その留主中の明応2年、細川政元は、足利義高(のち義澄)を将軍に擁立し、義尹は、将軍職を追われ、大内義興のもとに身をよせていた。

 閏六月九日、幕府は、大内義興追討の後柏原天皇綸旨をうけた。

 閏六月十一日、足利義尹は、阿蘇大宮司(惟長)へ、防州に下向したので、大内左京大夫(義興)と申し合わせ忠節を致すようにとの書状(御内書)を下した。




 閏六月十三日、大友親治は、将軍義高から、九州以下の探題料を御料所として預けられて、大内義興退治を命じられた。

 幕府は、大友親治に、明への渡航船の事に関して令した。

  幕府は、大友親治、その子親匡、大内太郎高弘、その他、九州、四国、安芸、石見の諸将に、大内義興治罰の事を令した。

 閏六月廿三日、足利将軍義高は、大友親治の譲与により、豊後・筑後・豊前守護職ならびに筑前・肥(後ヵ)両国内本新当知行の所領を、嫡子五郎親匡(義長)に安堵した。

 閏六月廿四日、大友五郎(親匡=義長)に宛てて、家督の御判に預かった旨を告げ、「義」の一字を賜わった事を告げる伊勢貞宗の副状が発せられ、親匡は諱を義親と改めた。

 この日、大友と大内の兵は、豊前国仲津郡沓緒崎に於て戦った。この戦いに、葛木藤右衛門尉は、大友方として力戦した。

 大内方では、仁保左近将監護郷が討死した。この時、護郷とその家人・一所衆・同道衆あわせて討死三十五名、負傷三十五名が記録されている。

 一説に、大友義有(政親の世子)は、数万の兵を率いて豊前に出張し、前年における父の仇を報ぜんとし、先ず大内氏の属城である馬嶽城を攻め、閏六月廿四日に、今井沓尾崎合戦に克ち、馬嶽城主の杉兵庫助弘隆を討取ったという(歴代鎮西要略)。

 この日以来、大内方の王丸中務丞は、馬岳に在城して日夜防戦に粉骨した(太宰管内志収載雷山文書)。

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 文亀二年、肥後国守護・宇土為光は、菊地の旧家臣らによって攻め殺され、ふたたび菊地能運が肥後国守護に返り咲いた。

 しかし、これ以後、肥後国では、家臣たちの発言力が強くなり、その対立も激しくなった。

 この頃、大友親治は、足利将軍義高に対し、大内義興退治の大将を派遣されるよう申請した。

 この頃、肥後守護菊池能運(武運)は、相良長毎(ながつね)(長輔)と、しばしば、書信を通じていた。

 菊池氏の勢力は、肥後国の北半にあり、相良氏は南端に位置していた。その間、東側の山間部には阿蘇氏、西側の海岸部には宇土氏が控えていた。

(つづく)

肥後国衆一揆―肥後戦国武将たちの最後の戦い

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甲斐宗運(永正12~天正13)と相良義陽(天文13~天正9)

永正十二(1515)年、甲斐宗運親直(かい・そううん・ちかなお、永正12~天正13)、誕生。母は某女。父は日向国臼杵郡鞍岡の国人・甲斐親宣(ちかのぶ・生没年未詳)。

甲斐氏は、もとは菊池氏で、鎌倉時代末期に、菊池武房の子・武本(武村とも)が、一族の内紛から、甲斐国都留郡に逃れて住んだ。

その子孫・重村は、建武3(1336)年に、足利尊氏に従って九州に下向し、甲斐氏を称した。

甲斐重村は、暦応1(1338)年に、大友氏の援軍とともに、肥後に進出したという。しかし、南朝方の菊池武重に敗れて、日向国の土持氏を頼って臼杵郡縣(あがた)に逃れ、その後、鞍岡(現、五ヶ瀬町)に土着して、同地の国人となった。

甲斐親直の生誕地については未詳ではあるが、たぶん、この日向国臼杵郡鞍岡であろう。→国土地理院25000分の1地形図http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?longitude=131.16053800811&latitude=32.638681106311

当時は、後柏原天皇朝で、足利将軍義稙(義尹改名)の治世であった。

当時の阿蘇家の当主は、阿蘇惟豊であったが、阿蘇大宮司職は、菊池武経(阿蘇惟長)の息子・惟前(これさき、生没年未詳)であった。

阿蘇大宮司惟憲(生没年未詳)の子惟長(菊池武経)は、大宮司職を継ぎ、肥後国益城郡矢部の浜の館(はまのやかた)を本拠としていたが、永正2(1505)年、菊池老臣らの推戴で菊池政隆を追い、大宮司職を弟の惟豊に譲り、同4年、隈府に入り、守護となって菊池武経を称していた。しかし、永正8~9年頃、隈府を去って帰郷し、同10年に惟豊を矢部浜の館から追い、息子の惟前(これさき、生没年未詳)を大宮司としたのである。

阿蘇地方には、古くから、噴火口を神体とする阿蘇の火山神への信仰があった。

それとは別に、地域開発に伴う開拓神への信仰があり、さらに、開拓者豪族阿蘇国造家の祖神を融合させることによって、阿蘇山北麓に鎮座する阿蘇社の原型が形成されたものと推測される。

大和朝廷が律令国家へと進展するにともなって、阿蘇国・閼宗県と呼ばれていた地域は、阿蘇評・阿蘇郡となり、阿蘇氏は、阿蘇郡司と阿蘇社神主の地位を認められた。

平安時代初期の友成以来、阿蘇氏の当主が代々、大宮司となったという。

友成について、太田亮『姓氏家系大辞典』には、「肥後阿蘇公の後裔なり。友成に至り、宇治宿禰と稱す」として、速瓶玉命、以下、惟泰(惟安)まで、50代の家系が掲げられているが、「予輩の見解を以つてすれば、上古の人名は全く信ずるに足らず。中古の人名に於いても疑問あり」とある。

たしかに、信憑性の高い一等史料による確証は得られないが、しかし、平安初期以来、阿蘇氏の当主が阿蘇大宮司に任ぜられていたとみて良いのではあるまいか。

太田亮氏は、「惟泰以後は史籍文書に徴證あり」として、惟泰以下の系図が掲げられ、「惟泰〈惟安、阿蘇健軍兩社大宮司/治承四年文書、宇治惟泰〉」とある。

律令制度が変貌していくにつれて、阿蘇氏は、領主的傾向を強め、阿蘇谷および南郷谷の地域に領主権を確立し、承暦年間(1077~80)、阿蘇一郡規模の皇室領荘園として阿蘇荘(阿蘇社)が立荘され、本家職は鳥羽院から安楽寿院と継承され、領家職は、村上源氏の源定房流に伝えられ、阿蘇氏(阿蘇大宮司)は、社家の統轄とともに、荘官として庄園領主への貢租納入の責任者・阿蘇郡内の実務支配者として、地域武士団の統率者となり、阿蘇大宮司が武士化した。

『事蹟通考』には、承元1(1207)年に阿蘇惟次が本拠を阿蘇南郷から陣ノ内に移したとあり、惟次によって浜の館が創建されたとされるが確証はない。

阿蘇大宮司は、建武政府から、本家職・領家職の荘園領主権と、末社支配権を与えられ、阿蘇郡に阿蘇大宮司の排他的一円支配が成立し、社家としての一面を残しながら、地域封建領主化の道を進んだ。

元弘の変が起こると、阿蘇惟直は、菊池武時らとともに、後醍醐天皇の綸旨を受け、鎮西探題北条英時を討つ計画を立てた。

ところが、計画が漏れ、阿蘇惟直、菊池武時らは、大友・少弐と連絡をとって兵を挙げようとしたが、大友・少弐らは変節して兵を挙げなかった。

決死の兵を挙げた阿蘇惟直、菊池武時らは探題館を攻撃したが、衆寡敵せず、菊池武時・頼隆らは討取られ、惟直は、矢部に逃れて再起を期した。

南北朝時代には、庶子連合による北朝系大宮司が一時、阿蘇郡を押さえたが、前大宮司惟時と女婿惟澄により滅ぼされ、惟時没後、惟澄が大宮司となり、惟澄の死後、北朝方の惟村、南朝方の惟武に分裂し、室町時代を通じて阿蘇氏2流の対立が生じた。

北朝方は、阿蘇惟時―惟村―惟郷と続き、南朝方は、阿蘇惟澄―惟武―惟兼と続いた。

北朝大宮司は、概して外輪山南西麓の浜の館または甲佐に拠り、南朝大宮司は、主に南郷谷を根拠としていたらしい。

阿蘇氏の本拠・浜の館は、陣ノ内浜御所・浜ノ御殿ともいい、阿蘇大宮司家が日常生活をおくった平城であるが、守りの城である岩尾城と一体であったとみるべきであろう。

熊本県立矢部高校改築に際して、ここが浜の館の跡であるという伝承に基づき、昭和48年から昭和51年にかけて、第1次・第2次の発掘調査が行われた。

遺跡の発掘調査によるC14年代測定によると、永仁3(1295)年・永享2(1430)年・永正7(1510)年に焼失して建替えられているという。とすれば、すでに、鎌倉時代には、なんらかの施設が存在していたと考えられる。

しかし、一般には、永享~宝徳年間頃、大宮司惟忠の頃に、館が成立したと考えられているようだ。永正7年の建造物は、3間四方の間取りを持つ儀式神殿と考えられている。

浜の館跡は、熊本県上益城郡矢部町城平に所在し、北側は丘陵で、北から延びる丘陵端下の平地、東に轟川(現、五老ヶ滝川)が南流する県立矢部高校敷地に立地している。→国土地理院25000分の1地形図http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?longitude=130.99382870351&latitude=32.686425232854

館跡は、東西220m、南北180m、東部はほとんど平坦で、後世の変容は少ないという。

中央北部が館跡の最高地で、南へ低くなる。

東は轟川に接し、北に空堀、南と西は水堀を構えていたという。

周囲には、武家屋敷があり、対岸の武家屋敷と往来するための「御前渡し」とよばれる川の道があった。

西側は、高低差が大きく、南の轟川を隔てた岩尾城(山城、別名矢部城)大手門への道が通じていたとみられる。

学校敷地の東・南・西の周囲は、水路と落込みがあり、水濠跡とみられ、北は高いが、境に掘切が認められる。

館跡は、丘陵を背に南に開け、北に掘切、南に水濠、東・西にも水濠または堀を巡らした方形と推定され、遺構は北の堀切と北東部の土塁が残存している。

伝承として、お花畑・門の跡・御前渡し・弾正さん・お梅さん、などがある(以上、主として『角川日本地名大辞典43熊本県』による)。

矢部の浜の館を追われた阿蘇惟豊は、日向国臼杵郡高千穂鞍岡に逃れたという。

永正十四年、鞍岡の国人領主甲斐重綱の子・親宣は、阿蘇惟長に追われた惟豊を助けて矢部を回復させ、阿蘇惟豊を大宮司に復帰させ、甲斐親宣は肥後に移住し、阿蘇郡南郷若神を居城としたという。

【史料1】『阿蘇家譜』六(昭和卅九年十二月 田北学・編『編年大友史料(増補訂正)』十四)
惟前。永正十年、父惟長ト共ニ、叔父惟豊ヲ襲フテ本宗ヲ簒ヒ、十四年、復薩摩ニ奔リ、(以下略)

※その後、甲斐親宣は、矢部の中村惟冬から小国の室原氏にあてた手紙に、「親宣が養生中故に何も相談がない」とあって、大宮司惟豊の重臣として枢機に参加していたことが推定される(阿部猛ほか編『戦国人名事典』)。

阿蘇惟豊に追われた阿蘇惟前は、薩摩や八代河田に亡命したという。

この年、相良長毎(ながつね)は、入道加清と号し、「相良氏法度十三ヶ条」を制定した。

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  永正十五年五月十一日、相良入道加清(長毎)、死去。法名大池蓮心。高田竜成寺に葬られた。

大永三(1523)年、阿蘇惟前は、益城堅志田城を奪い、一時、甲佐・堅志田・砥用・中山らに支配を及ぼしたという。

大永五(1525)年、相良長定(ながさだ)は、相良長祇(ながまさ)の肥後国球磨郡人吉城を攻略し、家督を簒奪し、長祗を自害に追い込んだ。

相良氏は、天永3(1112)年、藤原南家の遠江権守為憲の曾孫周頼(かねより)が、遠江国榛原郡相良荘(静岡県牧之原市相良)の荘司として土着し、相良氏を称したのに始まる。

玄孫頼景、その子長頼は、源頼朝に仕え、建久9(1198)年、肥後国球磨郡人吉荘の地頭となり、九州相良氏の祖となった。

人吉は、平氏の所領だった地で、平頼盛の臣・矢瀬主馬助が城館を構えていた。相良長頼は、館の明け渡しを要求したが、主馬助はこれを断った。長頼は、主馬助を討取って、その城館に入った。




人吉の主となった相良長頼は、直ちに城館の修築に取りかかった。これが、人吉城の始まりという。

この工事中に三日月文様の奇岩が出たので、人吉城のことを別名三日月城とも呼ぶようになったという。

その後、頼広・定頼・前頼の3代は南朝に仕えたが、前頼の子実長から足利氏に従い、肥後南半を保った。

9代堯頼(たかより)の時代、文安5(1448)年に、上相良宗家の多良木頼観・頼仙兄弟が、人吉城を攻取り、当主堯頼を追放した。下相良氏の一族治部少輔実重の子である長続(ながつぐ)は、人吉城を奪回して、頼観兄弟を雀ヶ森で討取り、球磨郡内を統一した。

堯頼の死去により、相良長続が下相良宗家を相続して、第11代当主となり、長禄2(1458)年に、島津忠政から薩摩牛屎院(うしくそいん)・牛山城を得、寛正1(1460)年には、菊池為邦が長続の芦北郡領有を承認し、同6年、名和顕忠の八代復帰を助けた。

相良長続は、応仁1(1467)年、三男為続(ためつぐ)に家督を譲り、細川勝元に応じて上京し、出兵したが、翌年、帰郷して、死去した。

相良為続は、文明14(1482)年以後、名和氏と対立し、同16年、八代古麓城を奪い、長享1(1487)年、豊福城を得た。為続の弟頼泰(権五郎・左近将監)は、人吉原城下原館に住んでいたが、この年、時の奉行左牟田・吉牟田らの支持でその子権五郎長泰擁立の計画が発覚し、税所新兵衛父子らが討手に向かい殺害された。為続は、明応2(1493)年、「相良氏法度七条」を定め、明応8(1499)年、守護菊池能運と戦い、敗れて、豊福・八代を失い、牛屎院を島津へ返した。この年、為続は、その子長毎(ながつね)に、家督を譲り、9年6月4日、死去した。

菊池能運(よしゆき)は、文亀1(1501)年、一族宇土為光と戦い、隈府を追われ、肥前高来に亡命し、有馬氏を頼った。相良長毎は、肥前島原亡命中の能運と結び、同3年、能運は隈府を回復し、為光を殺し、守護の地位に復し、為光方の八代の名和顕忠の古麓城を相良・阿蘇氏ら国内勢力を動員して攻めて開城させ、相良長毎に与えた。

相良長毎は、永正8(1511)年、名和氏との久具川合戦の敗走を関城に防いだ。

相良長毎は、永正9年、家督を長祇に譲り、高田、今出水に隠居し、休也斎と号した。


相良長毎が隠居した後、長毎の子長唯(義滋)・瑞賢(長隆)の弟にあたる嫡出の長祗が相良家の家督を継承したが、長唯兄弟の叔父である長定が、これに異を唱え、人吉城を攻略したのである。

早速、長唯・瑞賢兄弟は、その報復を開始し、瑞賢が長定を追落とした。

人吉城に入った瑞賢は、還俗して長隆と名乗り、家督相続を企んだ。

今度は、長唯と長隆の兄弟争いとなった。

長唯は、一族の実力者の上村頼興に、頼興の息子・上村頼重(後の相良晴広)を養子とすることを条件に加勢を取付け、最終的には、長唯が相良家の当主となり、家督を継いだ。

大永六(1526)年七月、日向国真幸院の北原氏は、相良家の混乱を突いて、人吉城を取り囲んだ。

相良長唯は、城兵に「明日には援兵が来るぞ」と呼ばわらせて、皆越安芸守貞学に援軍を要請し、援軍として駆付けた貞学には「我等は伊東家の援軍なり。この後も軍兵が参陣するぞ」と呼ばわらせるという奇策を用いた。

北原氏は、これに騙されて、翌朝には城から全軍を退かせた(「大岩瀬合戦」)という。

以後、相良長唯は、肥後国内での勢力拡大と安定化を図った。

天文元(1532)年、天草の上津浦治種(鎮貞の祖父)は、天草尚種、志岐重経、長島但馬守、栖本氏、大矢野氏の連合軍に攻められた。

この時、相良長唯は、多数の援兵を送って、治種軍に大勝をもたらした(※この後、相良氏の天草への軍事介入は、第十八代義陽の代まで続いた)。

相良家家中では、上村頼興の意向を受けて、養子の晴広の対抗馬となり得る一族の粛清が始まった。

天文四年、上村頼興の弟である上村長種が殺害された。

この年、阿蘇氏は、名和氏と戦い、豊福城を奪い返した。

天文五年十一月、相良洞然(長国)は、主家の旧事を記して、主君相良晴広に呈した。

天文九年、阿蘇惟前は、菊池義武方に協力した。

天文十年、甲斐親直は、島津氏に内通し阿蘇氏に反旗を翻した御船城主御船房行を討伐し、その功によって御船城を与えられ、城主となった。

甲斐親直は、阿蘇勢力を代表して、豊後の大友氏と結び、私的にも、大友氏に協力していたという。

天文十二年、阿蘇惟前の堅志田、落城。惟前は、八代に亡命した。

天文十三(1544)年二月八日、相良万満丸(義陽)、誕生。母は上田織部允娘内城。父は相良晴広。

晴広は、上村頼興の子で、相良長唯(義滋)の嗣子となっていた。

天文十四年十二月、相良長唯は、足利将軍義晴から、一字拝領を許され、「義」の字を与えられて、名を義滋と改めた。

この年、阿蘇惟前は、法体となった。

この年、相良頼泰の三男長弘の子・治頼(文明十五~天文十五)は、肥後国八代郡岡城主で、兵法武道嗜み深く器量才覚にすぐれ球磨の侍等に衆望があったが、謀反のうわさを生じ、義滋が治頼成敗を定めたと聞き、犬童頼安らと球磨に至り、多良木籠城、耳取原の合戦で敗北し、日向から豊後へ出国した。

天文十五年、相良万満丸、三歳。

七月、肥後宮原銀山が発見された。

八月廿五日、相良義滋、死去。万満丸の父・晴広は、相良家の家督を継承し、肥後八代(やつしろ)の古麓鷹ヶ峰城主となった。

相良治頼は、豊後で病死した。

天文十八年七月、フランシスコ・ド・ザビエルは、鹿児島に上陸した(キリスト教の伝来)。

天文十九年二月、大友義鑑は、嫡子義鎮を廃そうとして、家臣に殺された。

この年、甲斐親直は、一時、八代郡(のち益城郡となる)豊福の一部を知行した。

天文廿年六月、肥後で虫害が発生し、穀価は騰貴し、人身売買が行われた。

九月、大内義隆(45歳)は、陶隆房に襲撃されて、山口を逃れ、長門大寧寺にて自殺した。

十月、ザビエルは、豊後をたち、インドへ向かった。大友義鎮は、インド総督への書を、ザビエルに託した。

天文廿一(1552)年三月、陶隆房は、大友義鎮の弟晴映(義長)を、大内氏の家督とした。

天文廿四(1555)年、相良万満丸、十二歳。

二月、相良晴広は、「相良氏法度」を制定した。

八月十二日、相良晴広、死去。相良万満丸が家督を継承したが、祖父上村頼興が後見した。

十月廿三日、弘治と改元。

この月、毛利元就は、陶晴賢を安芸厳島に破った。晴賢、自殺。

弘治二(1556)年七月、明使鄭舜功は、豊後に来て、倭寇の鎮圧を幕府に要請した。

永禄二(1559)年、相良万満丸(義陽)、十六歳。

二月、織田信長は、上洛して、足利将軍義輝に謁した。

肥後国球磨郡人吉城の城詰め衆である児玉弥太郎・早田平八郎・深水新左衛門の三人は、人吉奉行丸目頼美の母に仕える侍女と密通していて、三人は、この侍女らを迎えようとした。

三人は、丸目頼美と東長兄を争わせてその隙に侍女を連れ出すという計略を、宗慶寺の僧組より授かり、それを実行に移した。

まず、夜中に、児玉が、長兄の屋敷へと出向き、頼美が長兄を倒して威勢を強めようとしていると虚言を述べ、頼美の屋敷には、早田と深水が出向き、長兄が頼美を倒そうとしていると述べた。

相良義陽の母内城は、この事態を懸念し、湯前城主の東直政に仲裁を頼んだが、その内容が直政の予想したものと違っていたため、直政は、縁戚である頼美に同心してしまった。

五月十五日、東長兄は、危機感を抱き、相良義陽と内城に、「これでは自分が主に背くしかなくなる」と述べて、夜半、二人に仮病をつかわせ、密かに赤池城へと連れ出した。

相良義陽と内城が長兄に伴われて赤池城に着くと同時に、長兄の家臣60余人が、長兄の屋敷から頼美の屋敷へ向けて火矢を放った。

突然の攻撃に、丸目頼美は為す術なく、妻子および母とその侍女らを連れだって湯前城へと逃れ、東直政と共に、籠城することになった。

湯前城では、突然の籠城であった為に兵糧が少なく、直政は、止む無く自身の米蔵のある上村郷から米を運び入れる為に人夫を派遣し、自身の実弟である恒松蔵人の軍勢を護衛に付けた。

相良義陽は、これを聞きつけて、犬童頼安に軍勢を与えて出陣させた。

犬童頼安は、奥野一度橋でこれを迎え撃ったが、軍勢は壊滅させられ、頼安自身も手傷を負って帰還した。

八月十五日、湯前城では、「人吉城の兵が多良木城へ入りそこから湯前城を攻撃する」との情報を得た。

その夜半、東直政は、その前に多良木城を攻め取るべしと、恒松蔵人の軍勢を多良木城攻略へと向かわせた。

だが、多良木城の城代・岩崎加賀の甥は、湯前城にいたのであるが、叔父が討たれる事を懸念して、自らの侍女を、策を以って城外へと出し、この侍女に出兵の情報を伝えさせていた為、岩崎加賀は、須恵、深田、木上の地頭の兵を事前に伏兵させていた。

恒松蔵人がやってくると、伏兵は一気に襲いかかったが、逆に壊滅させられ、多良木城へと逃れた。

蔵人は、そのまま多良木城を攻撃するが、城は落とせず、止む無く、球磨の獺野原(うそのばる)へ退き、そこで陣を敷いた。

翌八月十六日(一説に九月三日)、東直政、丸目頼美、恒松蔵人の軍勢に加え、日向国向山城の那須武綱、大川内城の那須武宗、小崎城の那須武晴も、援軍として、獺野原に布陣した。

これに対し、犬童頼安の人吉衆、深水惣左衛門の多良木衆、須恵、深田、木上の兵も、布陣した。

まず、多良木衆が先陣となり、東直政らと交戦したが、深水惣左衛門らは討ち死に、多良木衆も壊滅してしまった。

次に、人吉衆がこれと交戦するが、丸目頼美の兵と犬童頼安の兵は知り合い同士で、尚且つ親戚や兄弟同士で戦う事になり、躊躇いがあったものか、戦端は動くことなく、半刻にも及ぶ鑓同士の攻撃に終始してしまった。

だが、そのうちに、二度目の戦いであった恒松蔵人の兵に疲れが見え始め、人吉衆がこれを押し始めた事で乱戦となり、東直政の軍は壊滅、丸目頼美は日向へ逃れたが、直政、及び蔵人を含めた180余名が討ち死に、一方の人吉方は62人が死去した(『南藤蔓綿録』での数字)。

また、敗戦を聞いた湯前城代・中山和泉は、城に火を付け自害、東直政の妻子および丸目頼美の母と侍女らも、逃れていた西光寺谷で自害した。

永禄三(1560)年、阿蘇惟前は、阿蘇小国に討ち入るも失敗。その後、惟前の消息は未詳となる。

永禄五(1562)年、相良義陽、十九歳。

相良義陽は、肥後国球磨・芦北・八代の三郡を統率するまでに成長し、日向国真幸を入手した。

この年、甲斐親直は、出家し、宗運と号した。

宗運は、北は大友氏、南は相良氏と同盟を結ぶことで、阿蘇氏の独立を保った。

永禄八年、甲斐宗運は、阿蘇氏からの離反を画策した同族(娘婿)の甲斐守昌の居城隈庄城内の甲斐一族分裂に関与し、隈庄城を攻撃し、守昌を追放した。

永禄十年、相良義陽は、薩摩島津勢と薩摩大口初栗に戦い、勝利した。

永禄十二(1569)年、相良義陽は、砥上の戦いで敗れ、大口を失った。

天正六(1578)年十一月、島津義久は、大友義鎮を、日向高城に破り、大友領内に攻め入った。

甲斐宗運は、大友氏の高城・耳川合戦敗北後離反した熊本の城氏・宇土の名和氏らと戦った。

大友氏が、島津氏に敗れ、肥後への影響力が低下すると、肥後の国人衆の多くは、島津氏や龍造寺氏についたが、宗運は、大友氏との同盟を維持した。

天正八年三月、龍造寺氏に従属した隈部親永、合志親為、河尻氏、鹿子木氏と、島津氏に従属した
名和顕孝、城親賢による肥後国人衆の連合軍が、阿蘇氏打倒の兵を挙げた。

宗運は、兵八千を率いて迎え撃ち、白川旦過瀬を挟んで対陣した。

間者の報告によって、隈部勢が、降雨に油断して酒盛りをしていたことを知ると、翌日未明に渡河して急襲し、隈部勢は大混乱に陥り、敗走した。

天正九年春、甲斐宗運は、大友氏に見切りを付け、肥前の龍造寺氏に、一族連名の起請文を送り、人質を出した。

戦国時代の肥後は、大友・龍造寺・島津の三つの勢力に挟まれて動揺していた。

九月、薩摩の島津義久は、出水を本営として、芦北に侵攻した。

八代・芦北・球磨の三郡を支配していた相良義陽は、これを迎え撃つも、島津の大軍に水俣を囲まれ、芦北郡の割譲と益城の甲斐氏攻撃を条件に和平した。

島津義久は、義陽に対して、降伏の証しに、阿蘇氏攻撃の先鋒を務めるように要求した。義久は、相良氏と阿蘇氏を戦わせることで双方の力を消耗させ、かつ、肥前の龍造寺氏を牽制しようとしたのである。

島津義久の命を受けた相良義陽は、阿蘇氏を討つために、阿蘇氏の重臣で、義陽とは誓詞を交わした盟友でもあった御船城主甲斐宗運と戦わざるを得なくなった。

すぐさま、島津氏は、相良義陽に、阿蘇領の御船城攻略を命じた。肥後の国人衆を分断する目的で、敢えてこの両者を争わせようとしたのである。

御船の田代城主田代快尊・宗傳父子は、宗傳が甲斐宗運の妹婿でもあり、相良勢と対峙した。

十二月二日、相良義陽は、八千の兵を率いて、八代を出発して、御船に向かい、守山・小野から娑婆神峠に陣を構え、堅志田城や豊内城を攻め、優勢のまま、益城郡響ヶ原に陣取った。

しかし、休息をとり、祝宴をあげていた隙を突かれて、本陣を急襲された。

甲斐宗運の軍勢は、濃霧に包まれた響ヶ原(熊本県宇城市豊野町)の本陣を背後から奇襲し、相良軍を撃破した。相良勢は、義陽以下多数の戦死者(約三百名)を出した。

相良義陽は、盟友であった甲斐宗運を裏切らざるを得なかった苦悩から、島津氏と宗運との間で板挟みとなり、わざと敗北を招くような、守備には不利な響ヶ原に本陣を敷いたともいわれる。義陽は覚悟の戦死であったという。義陽は、あくまでも退却せず、床几に座したまま戦死した。

義陽の首を見た甲斐宗運は落涙したといわれ、その首を検分した宗運はその証拠にこの首塚を建てたという。

相良塚 熊本県上益城郡御船町・平成音楽大学門前→国土地理院2万5000分の1地形図http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?longitude=130.7906083&latitude=32.71185556
131127-1・20101107・相良塚F1000347.JPG131127-2・20101107・相良塚拡大F1000348.JPG

相良義陽を失った相良氏は、忠房(ただふさ)が後継者となったが、八代を追われ、球磨郡人吉に封じ込められた。

島津義久は、八代まで進出し、肥後を治める前線基地として、弟の忠平(のち義弘)を配した。

天正十年六月、明智光秀は、織田信長(49歳)を本能寺に、信忠(26歳)を二条城に囲み、自殺させた。

甲斐宗運は、相良氏との戦いには勝利したものの、阿蘇氏が相良氏の協力なしに島津氏と渡り合うことは困難であった。

宗運は、外交的駆引きにより、龍造寺・島津の二大勢力の間で阿蘇氏の命脈を保つことに腐心した。

この年の冬、甲斐宗運は、島津氏に和睦を申し入れるが、島津側が提示した条件を何一つ履行せず、逆に阿蘇氏旧領の返還を要求するなどの対応をして、交渉を難航させた。

天正十一(1583)年(一説に天正十三年)、甲斐宗運、病死。

一説に、甲斐宗運は、宗運の孫娘に毒殺されたともいう。

天正十二(1584)年三月、龍造寺隆信は、島津氏と肥前島原に戦い、敗死した。

天正十三年七月三日、一説によると、甲斐宗運、死去という(天正十一年の項参照)。

〔宗運毒殺説〕 ※ウィキペディアによる。
宗運は嫡男・親英の娘、宗運の孫娘によって毒殺されたという説がある。
阿蘇氏への忠節を頑ななまでに貫いた宗運は、主家を裏切ろうとする者、主家の政策に背こうとする者を容赦なく粛清した。それは息子とて例外ではなく、日向国の伊東義祐への接近を試みた二男親正、三男宣成、四男直武をことごとく誅殺し、これに反発して宗運の排除をもくろんだ親英までも殺害しようとした(家臣たちの嘆願により思いとどまった)。戦国の世とはいえ、我が子を一度に4人も殺害しようというのはきわめて苛烈な処断といえた。
これに親英の妻は大いに憤激し、娘に命じて宗運を毒殺したといわれる。これは、彼女は阿蘇氏家臣・黒仁田親定の娘であったが、親定はかつて伊東氏への内通を疑われ、宗運によって暗殺されていたからであり、親定を殺害するにあたり、宗運は親英の妻に「父の殺害を決して怨まず、また宗運に復讐を企てない」旨を神の名にかけて誓約をさせていたという。そのため、親英の妻が娘の手を借りたのは、そのほうが宗運の油断を招きやすいだけでなく、かつての誓約の文言に反しないようにするためであったというのである。

甲斐宗運の墓 熊本県上益城郡御船町木倉南(木倉861)永寿寺境内 ※なお、御船町上辺田見にも甲斐宗運夫妻の墓がある。
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